最初に書きますが、今回はみなさんのNOBISHIROに叶うネタではありません。
12月12日、年末の恒例行事である「今年の漢字」が京都・清水寺で発表されました。 2025年の世相を表す一文字として選ばれたのは「熊」でした。
確かに、今年は全国各地で熊の出没が相次ぎ、アーバンベア(都市型熊)という言葉がニュースを賑わせました。そのインパクトの強さは否定しませんし、多くの人の記憶に残っていることは事実でしょう。
しかし、この発表を聞いた瞬間(厳密に書くと、社員から聞いたのですが)、私の胸中には「納得」よりも先に、とてつもない違和感がありました。
生活実感としては「米」や「高」だった
まず、私たちの生活実感として、もっと相応しい漢字があったように思います。
例えば「米」です。 今年は深刻な米不足に直面し、スーパーの棚からお米が消え、価格が高騰したことがありました。「令和の米騒動」とも呼ばれたあの現象こそ、日本中の食卓を揺るがした今年の象徴だった気がしてなりません。
あるいは「高」も挙げられます。 ガソリン価格の高止まりをはじめ、電気代、食品など、あらゆる物価が上昇し続けました。経営者としても、一生活者としても、この「高」という字が持つ重圧をひしひしと感じた一年でした。
これらの漢字のほうが、日々の暮らしの苦楽を共にした今年の一文字として、より多くの人の共感を呼んだのではないでしょうか。
被害者への配慮という視点
そして何よりも、私が「熊」という選定に対して抱く最大の違和感は、「被害に遭われた方々への配慮」です。
自然災害や人災を表す漢字が選ばれることは過去にもありましたが、「熊」の被害は現在進行形の恐怖であり、実際に身体的な被害を受けた方、農作物を荒らされた生産者の方々がいらっしゃいます。
そうした方々にとって、今年の象徴として「熊」という文字が大きく掲げられることは、恐怖や痛ましい記憶をフラッシュバックさせることになりはしないでしょうか。一種の「災害」とも言える事象を、イベントとして消費することへの危うさを感じずにはいられません。なんだか他人事のような感覚とも捉えられます。
終わりに
今年の漢字は、あくまで応募数によって決まるものであり、それが世論の総意であることは理解しています。しかし、その結果が必ずしも配慮ある選択であるかというと、そうも言えないと思う私のような人は少なくないと思います。
「熊」という文字を見て、単に「あぁ、そんなこともあったな」と振り返る人ばかりではない――。 その想像力が、少し欠けているように感じてしまったのが正直なところです。
皆さんは、今回の「今年の漢字」をどのように受け止めましたか? 来年こそは、誰もが心穏やかに、希望を持って頷けるような一文字が選ばれる年になることを願ってやみません。













